논단

韓半島の平和体制の確立と東北アジアの平和 [修整本 揭載]

작성자
최형묵
작성일
2013-08-05 15:29
조회
2704
8・15を覚え平和を求める集会 講演


「韓半島の平和体制の確立と東北アジアの平和」


  崔亨黙(韓国基督教長老會大田老會 天安サルリム教会牧師/ハンシン大学客員教授)


1.        はじめに

 日本において“戦後”という言葉は、ただ1945年8月15日敗戦以後を指し示すものではなく、一つの重要な価値概念として受けとめられている。すなわちそれは軍国主義から平和主義へ、軍部専制の時代から民主主義の時代へ、戦争の災難の時代から経済繁栄の時代への転換を意味する。もちろんそれぞれの時代、異なる立場によって、その意味は非常に多様に受けとめられることであろうが、一般的には“平和と民主主義”の時代を意味するものとして受けとめられているようである。1)

 反面、韓国における“戦後”は“分断と体制対決”の時代として特徴づけられる。“戦後”という言葉よりは“解放後”という言葉が広く使われていることからもわかるように、1945年8月15日解放以後、韓半島(*訳者註 日本では朝鮮半島と表現されているがここでは原文どおりとした。)では当然国家の完全な独立と共に、国民主権の保障に対する期待が高かった。しかし、その期待とは異なり、まさにその時形成された冷戦体制と南北の分断が現実のものとなり、その結果、極端な戦争をやってしまっただけでなく、それ以後も戦争状態が終結しないまま(現在においても“休戦状態”のままである。)南北間の体制対決が圧倒してきた。その過程で長期間の権威主義統治が続いたのであり、それにともない民主主義も滞って来たのである。もちろん分断体制下、以南(韓国)はその渦中においても経済的繁栄と民主化をなしたのは事実ではあるが、依然として分断による不安定な状況に直面している。

 問題の状況を多少単純化させて韓・日両国間の状況を比較してみたものであるが、互いに異なる両国間の状況はどんな意味においてであれ、一つの過去の歴史的事実を起点としている。それはすなわち日本帝国主義の朝鮮植民地支配という歴史的事実である。戦後日本はそこからの“断絶”から形成されたのだとすれば、解放後の韓半島の状況はとんでもない形でその遺産を“持続”したところから始まった。もちろん、果たして“断絶”なのか“持続”なのか議論の余地がないわけではない。だけれども日本の憲法が標榜しているように、平和と民主主義の国家としての転換は、ひとたび帝国主義・軍国主義からの断絶を意味するものであることははっきりしている。正反対に韓半島が過去の遺産を持続しているということは韓半島の分断が帝国主義国家として戦争の当事者である日本が負わねばならない責任を代わりに担ったということを物語っている。

 結局、戦後日本の“断絶”は戦争を起こした帝国主義国家として責任を旧植民地国家に転嫁することで可能となったと言うことができる。その責任転嫁は日本の内部でも起こった。連合国による東京裁判で、一部の軍部勢力にだけ戦争責任を問うたこともまたそれに該当する。そのように現実的な責任転嫁と共にできあがった歴史的断絶によって日本の中では過去の歴史に対する忘却現象もまた甚だしく現れた。2)その背後に列強諸国の介入もなされるが、その状況を作り出した中心国家としてアメリカがあるということは周知の事実である。いずれにせよ、この奇妙な状況が今日にいたるまで東北アジアの不安定な構図を持続させている根本的背景である。

 真の意味で平和を考え、平和のために心を合わせるこの場所で、わたしは東北アジアにおいて最大の緊張要因として数えられる南北間の葛藤の解消による平和体制の確立の重要性を強調し、それが東北アジアの平和にどんな意味があるのか共に考えを分かち合いたいと思う。

 先だって語った内容は、今日差し迫って要請される韓半島の平和体制確立の課題が帝国主義国家として日本がなしてきた過去の歴史に始まる遺産を克服する課題の一環だということを喚起する意図でのものである。それは南北間の緊張にあって、のっぴきならない当事者になりうるという現実的状況のためばかりでなく、今日のその状況を引き起こした根本的責任を負うている当事者として日本の役割を喚起する意味を持つのである。過去の歴史を喚起することは、ドイツの戦争責任に関連して1985年西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の有名な演説の言葉を想起することでその意義を十分に推し量ることができる。“過去に対して目を閉じる者は、結局、現在に対しても目が遠ざかるようになる”と。我々にとってその認識が切実なのは結局、平和な未来を共につくりたいがためである。3) 今日の講演は、その過去に対する認識を基本前提とするが、その過去の歴史の問題を主題とするよりは、その過去と関わりがないわけではない今日の問題として韓半島の危機の状況を直接的な主題とする。この問題以外にも過去の歴史と関連する様々な問題も共に考えることは出来るが、この講演においては韓半島の危機的状況を中心内容とし、他の問題については対話の時間を通して話の分かち合いができることを願う。


2.        2013年 韓半島の緊張の高まりの背景と過程

 2013年上半期、韓半島は緊張が最高潮に達した。2月12日北朝鮮(*訳者註 原文は“北韓”であり朝鮮民主主義人民共和国を指す。ここでは北朝鮮と訳した。)の3回目となる核実験の余波であった。一触即発の戦争の危機的状況とまでみなされた。いちばんはじめいわゆる“北の核”問題が露顕した直後の1994年“北爆”危機以来最大の危機的状況が展開された。どのようにしてその状況が展開されたのか?

 過ぐる1993年北朝鮮が核拡散禁止条約(NPT)の脱退から起こり始めた“北の核”問題は今日にいたるまで20年の間、東北アジアの平和を危うくする最大の要因としてみなされてきた。これまでの20年の間、北朝鮮はNPT脱退(1993.4.13)、4回の長距離ロケット発射(1998.8.31,2009.4.5,2012.4.12,2012.12.12)、1回の中短距離ミサイルの発射(2006.7.5)、3回の核実験(2006.10.9,2009.5,2013.2.12)など数回にわたる危機を高める措置をとってきた。その一連の過程を見るならば、北朝鮮は周辺国と世界の世論に関係なく、自らの固執するままに行動してきた統制不能な国家のようにみえる。それでアメリカのブッシュ大統領によって“悪の枢軸”の一つとして目されたりもした。表面的な世界の世論によればそれこそ非理性的な国家としてみなされたりもした。さらに深刻な飢饉で住民の絶対多数が飢餓状態に直面しているにもかかわらず軍備を拡張し核開発を試みることはまったく納得のいかないものと思われている。

 いったい北朝鮮の核開発の意図は何であるのか?そして最近になって危機をいっそう高めているわけは何なのか?この問いに対しては様々な説明の仕方がある。第一に軍事的手段、第二に政治的手段、第三に交渉の道具、第四に象徴的手段として意義を持つということとしてみる見解などである。ある意味、すべてが一理ある見解のようではあるが、すべてに妥当する見解ではない。北朝鮮の核活動は北朝鮮の内的動因として推進されたというよりは、正確に言うならばアメリカと韓国の行為に対する反作用として意義を持っている。4) それは北の核問題が初めて提起された状況から現在にいたるまでその相互関係をつぶさに見るならば十分に理解することができる。


1)        北の核問題の拡大過程

まず我々は北朝鮮が1990年代初盤、東欧の社会主義圏が崩壊し、東ドイツが西ドイツに吸収統一されるや深刻な経済不安を感じながら、以後一貫して主張してきた内容に注目する必要がある。機会があるごとに強調される北朝鮮の要求事項は平和協定締結、体制の安全保障、経済制裁の解除として集約される。

東欧社会主義圏の崩壊とドイツの統一以後、北朝鮮は何よりも体制不安を感じた。それで1992年 金容淳労働党秘書がアメリカを訪問し、当時のブッシュ政府に国交の回復を要請したが無視されるや、クリントン政府の初期に核カードをもって出たのである。クリントン政府と韓国の金泳三政府がこれに対して制裁の立場をとるや、北朝鮮はむしろNPT脱退として対応し、それでも対話の必要性を語りながらもいざとなると応じないアメリカの態度、そして韓国の強硬な態度が継続されると、北朝鮮は「労働1号」ミサイルを発射することで超強行的対応をする。その時になってはじめてアメリカは対話に応じ、1994年10月、ついにジェノバで基本合意にいたった。その内容は、北朝鮮は寧辺の核施設を凍結し、アメリカはその代価として北朝鮮との国交回復の後、200万kw軽水炉を支援するというものであった。

しかし、ジェノバ合意にともなう支援がその通りに実現されず、北とアメリカの国交回復も進展がなかった上に、アメリカから北朝鮮崩壊説が出回るや、北朝鮮は1998年8月末、長距離ミサイルを発射した。ミサイルは日本列島を越え、アメリカ側へ1,640kmにまで飛んで行った。アメリカの世論は悪化をたどり、日本は興奮のるつぼに陥った。韓国の世論もよいわけがなかったが、対北制裁が東北アジアの緊張を高めることになると予想した当時の金大中政府が“太陽政策”の脈絡で仲裁の役割をした。結局、金大中政府の説得でアメリカのウイリアム・ペリー前国防長官によるペリープロセスが提案された。その内容は、“北朝鮮がミサイル発射を猶予するならば、アメリカは対北制裁を解除する。北朝鮮が核とミサイル開発を中断するならば、アメリカと日本は北朝鮮との修交を推進し、南北関係も積極的に活性化する。究極的には北朝鮮が渇望してきた韓半島の平和協定を締結し、国際安保次元で不安感なく生きられるようにする”というものであった。これは東北アジアの冷戦体制を解体するものとして、ジェノバ合意よりはるかにすすんだものであった。2000年南北頂上会談もそのような条件において成されたのである。

ところが2001年息子の方のブッシュ政府が出帆するや事態はふたたび悪化した。ブッシュ政府が両国間の合意をくつがえしてしまったためである。結局ブッシュ政府の対北強硬策が続けられる間、北朝鮮は核実験をし、長距離ミサイルの性能を向上させた。その渦中にアメリカは、韓国と中国の強力な勧告を受け入れ、2005年 6者会談において9.19共同声明に合意した。その内容は“北朝鮮が核を放棄すれば、日本、そしてアメリカとの国交回復をなし、5カ国が経済とエネルギーの支援をする。核問題が相当程度解決されれば、韓半島の平和体制を合意し構築する”というものであった。北朝鮮に対する補償の約束は漸次拡大された。しかしその合意事項が守られ実行されない間、北朝鮮の核とミサイルの能力が拡大されることになるのであった。5)

この一連の過程をみるならば北朝鮮が戦略的手腕や外交的能力が秀でており、核能力を育てつつ、同時に補償の約束も拡大させたというのでは決してない。それは基本的に政権が変わる度に、対北政策を再検討し、合意事項を守らないアメリカの態度から始まったものである。


2)        2013年韓半島の危機の高まりの過程

アメリカのオバマ政府は、その過程に反省するがごとく“挑発には補償の政策をとらない”と宣言し、いわゆる“戦略的忍耐”政策を持続してきた。その上、韓国の李明博政府もまた“待つことも戦略”だとし、北朝鮮の態度の変化だけを要求しただけで南北関係を積極的に改善しようという試みをすることはなかった。金大中、盧武鉉政府へと引き継がれる韓国の民主政府による南北関係の主導的役割はもはや期待できない状況となり、結局、事態はいっそう悪化した。2013年韓半島危機の高まりの直接的原因である北朝鮮の3回目の核実験は李明博政府とオバマ1期行政府がそれまでの4年間確固たる共助のもと推進してきた“戦略的忍耐”に対する対応であった。また2012年4月のロケット発射時も、そうした外交が失踪し悪化の一途をたどる北とアメリカの関係の論理的帰着点でもある。

戦略的忍耐は3種類の軸を中心としているという。:1)核抑止力と在来の軍事力を利用した軍事的圧迫の強化。2)国連による制裁を中心とした封鎖。3)“急変事態”を想定した低強度の戦争。オバマ政府は軍事的圧力と経済封鎖という道具を用いた点でブッシュ政府と異ならないが国際主義の枠の中で北朝鮮に対する制裁と圧迫を強化したことが特徴である。これは過去のアメリカ政府の対応より強度が高いものである。

しかしこうした圧迫に対応し北朝鮮は軍事力も強化したし、経済的な反騰の機会をつくり、政治的にも内部体制を堅固化したのである。金正恩第1委員長への権力委譲と労働党並びに国家機構の頂上化がなされた。経済的には大型発電所の建設が完工され、製鉄並びに化学工業の再整備がなされながら、消費財並びに農畜産業の発展へと引き継がれていく姿を見せている。そして特に核能力ののびが際立つ。国連の安保理が議長声明として北の人工衛星発射を糾弾するや核実験をもって対応した。安保理決議1874号が採択されると“新たに抽出されるプルトニウムの全量を武器化する”のだと宣言し、安保理決議2087号に対応して3回目の核実験を断行した。また核兵器の小型化、軽量化、多種化を宣言し、射程距離が3千から4千kmと推定されるムスダンミサイルを2007年に公開したのに続き2012年には大陸間弾道弾と推定されるKN-08新型弾道ミサイルを発表した。“戦略的忍耐”に対応し北朝鮮は核とミサイル能力をいっそう強化させたのである。2012年2月29日アメリカとの合意がなされた時だけみても北の大量殺傷兵器の能力がこれほどまでに伸びるのを防ぐ可能性はあったのである。当時の合意内容は、長距離ミサイル発射とウラン濃縮活動を含む核活動の停止、寧辺のウラニウム濃縮活動の停止に対する検証とモニタリング、そして原子炉と関連施設の不能措置を確認するための国際原子力機構(IAEA)の査察団復帰を受け入れることであった。

この合意が再び、ふた月もたたない2012年4月 北朝鮮の“光明星”発射の実験以後、霧散してしまった。アメリカがこれを長距離ミサイルの試みとして規定し2.29合意に違反するものとみなし、国連安保理で“強力に糾弾”するという議長声明を主導したためである。北朝鮮は“正当な衛星発射の権利を侵害する敵対行為”としてみなし、2.29合意にこれ以上拘束されないものだと宣言した。それにも拘わらず北朝鮮はアメリカとの秘密接触などを通してアメリカが北朝鮮に対する敵対行為を中断し平和な関係をつくる道と、敵対行為を維持することで核能力が現代化し拡張される道という二つの道を開いておいた。しかし2012年10月7日、韓米両国政府が“ミサイル指針”を改定し韓国のミサイルの射距離を800kmへとのばし、北朝鮮の全域を射程圏に入れるようにすることで事態は急変した。北朝鮮はアメリカが依然として北に対する敵対政策を維持しているとみ、軍事的対応を宣言した。韓国とアメリカ政府はなお外交力を発揮することよりは軍事的対応措置を強化し、12月12日 北朝鮮の銀河3号(光明星3号登載推進体)発射に対応し、国連安保理決議2087号を採択し北朝鮮を圧迫した。韓国とアメリカは軍の警戒態勢をを強化し2013年3月に予定していた軍事訓練準備に入った。そのように圧迫が加重される状況にあって北朝鮮は2月12日3回目の核実験を強行した。以後韓半島は急激に緊張が高まり、戦争の可能性さえ憂慮される状況へと駆け上がった。なおかつその上に3月、4月の大規模な長期間の韓米連合軍事訓練が行われ緊張はしだいに上昇したのである。

以上をつぶさにみたように、北朝鮮の核脅威の行為は韓国とアメリカの戦略に対する対応策としての性格を持っている。それが2013年初盤、前触れなしに強硬された3度目の核実験であり、それ以後、やはり前触れなしに強化された韓米の圧迫と、またもう一方での北朝鮮の自信感とが重なり最悪の組み合わせができあがってしまったのである。李明博政府の無視と圧迫は言うまでもないが、オバマ政府の対北圧迫は以前のアメリカ政府の圧迫に比べてはるかに強度が高いものであった。すでに述べたようにオバマ政府は基本的に軍事的圧力と経済封鎖で北を圧迫した点では同じであるが、ブッシュ政府の一方主義とは異なり、国連などを通しての国際主義的な圧迫を加えたという点で、それまでとは異なる性格を持っている。その上、以前まで黙認されていた人工衛星の発射までも制裁の対象とし、人権問題の次元にいたるまで圧迫を加えた。国連の安保理において経済制裁決議案が論議されたことと同時に、2013年3月14日には国連の人権理事会で北朝鮮の人権決議案まで採択された。この決議案の採択は、北の立場から見る時、人権問題においてだけであっても北に対する軍事的介入が可能なものとして受けとめられる他なかった。まさにそうした決議事項などがなされていく時点にあって、強度の高い韓米連合軍事訓練が進行していたのである。この訓練には、沖縄の普天間基地に配置された垂直離着陸輸送機オスプレイがはじめて動員され、オーストラリアの戦闘兵力も参加した。その状況で北朝鮮としては危機意識が極に達する他なかった。それが2013年 韓半島の危機高潮の状況であった。その高まった危機状況は韓米連合軍事訓練が終わってはじめて調停の局面に入ったが、依然として状況は不透明である。

2013年はじめ、韓国では朴槿恵政権が登場し、安保と協力の均衡を整えようとする“信頼プロセス”(人道的問題解決、当国間対話、互恵的交流協力、開城(ケソン)工団の国際化、北の核問題解決を主要な内容とする)を対北政策として打ち出したが、その政策が展開されるよりも前に危機を迎えた。韓国の新しい政府が対北政策で“信頼プロセス”をかかげ、それに伴う危機状況の打開を期待もしたが、それが果たしてどのように貫徹されるか確かではないのである。

今年は韓国戦争(*訳者註 日本では朝鮮戦争という表現となっているが、ここでは原文どおりとした)を一時中断し停戦協定を結んでから60年となる年である。1950年6月から1953年7月まで続いた韓国戦争は単純な内戦ではなく、世界的な冷戦体制が醸し出す地域戦争であり、同時に国際戦争であった。6) 従って、その戦争の一時的中断としての停戦体制を克服し、平和体制を樹立することは東北アジア地域はもちろん世界的次元で重要な意義を持つのだと言うことができる。


3.        韓半島の平和体制の確立と東北アジアの平和

 これまでつぶさにみてきたように、過ぐる20年間進行した過程に対してはっきりしている事実関係を再構成することだけでも、我々ははっきりとした教訓を得ることができる。軍事的圧迫や経済制裁のような強硬策は韓半島の非核化と平和に逆行する結果を生む反面、対話と交流は核抑制と不能化に向け成功を重ねることで非核化と平和に寄与できるということである。この事実は非核化を先決課題とすることで平和をなすことができるという考え方をあらためて確認させ、平和体制を樹立することと同時に非核化をなすことができる可能性を提示してくれる。

 韓半島の平和体制樹立は一次的な戦争の直接的当事国(南・北・米・中)の積極的な意志を必要とするだけでなく、韓半島の状況と緊密に関連する域内主要国として日・ロの協力を必要とする。危機局面で重要な役割をしてきた6者会談当事者国の緊密な対話と協力を必要とするものである。韓半島の平和体制の確立は韓半島だけの課題ではなく、東北アジアの平和をなそうとするにあたって絶対的な必要条件である。また過去の歴史から始まる歪曲された現実を克服する重要な一つの課題でもある。

 あまりに常識的ではっきりしている対案にもかかわらず、当事者国間の危機脱出の解法が講じられない現実において、どのような突破口があるだろうか?我々が期待することのできる突破口はやはり民主的力量を強化した市民社会の積極的役割である。これと関連して、最近話題を集めている孫崎享の主張は非常に示唆的である。彼の最新作『戦後史の正体1945~2012』も興味深いが、それより前に出た『日本の国境問題―尖閣・竹島・北方領土』もまた非常に興味深い主張が盛り込まれている。彼は、福沢諭吉の脱亜入欧論が、西勢東占の現実において中国と朝鮮が独立できないという条件を前提にしてつくられたのだという点を指摘しながら、状況が逆転している現在の条件においては東北アジアの国家が領土紛争を避けてヨーロッパ連合のような地域統合をを追及しなければならないということを主張する。東北アジアにおいて紛争を避けつつ平和体制を確立することを重要な課題として提示しているが、次のような彼の主張はとても示唆的である。“我々市民は、政治家が領土問題で強硬発言をする時、それが何を達成しようとしているのか注意深く立ち入って考えてみる必要がある”と。一言で言えば、覚めている市民社会の役割を強調するのである。

 市民社会の民主的力量の強化が平和体制樹立のために国家の政策に及ぼす影響は韓・日両国間の事例を通してみてもはっきりしている。日本の民主党政権の鳩山首相が東アジア共同体構想を明らかにしたことがあり、韓国の盧武鉉政府は東北アジアのバランスをとるものとしての韓国の役割を強調したことがあった。この二種類の構想の共通点は既存のアメリカを中心とする同盟関係に一方的に依存することよりは、東北アジア域内の平和体制確立を目標としていたということである。残念ながらその構想は現在においては挫折してしまったが、東北アジアの平和体制を樹立することができる現実的な政策方向であることにはちがいない。その対案を再び生かすのが市民社会の役割なのである。


4.        平和のためのキリスト者の使命(*訳注 原文は“キリスト人”)

 キリスト者の立場において、平和のために働くことはあらためて確認する必要のないほど当然の使命ということになる。その使命は“平和を実現する人々は、幸いである”(マタイ5:9)というキリストの告げ知らせと、平和をなすキリストの生に対する信仰から始まる。ここに集ったわたしたちすべてがその真実に共感している。その真実に共感するからこそ、その根本的使命に関する抽象的な話よりも具体的な経験を共に分かつことでこの講演を締めくくりたい。

 わたしは最近、軍隊慰安婦とされたハルモニたちを支援する活動と“戦争と女性人権博物館”建設の支援活動を主導してきた方々と韓国において、そして日本でも出会った。今、この場にその何人かの方々も共にいる。また今日のこの場を準備した京都教区の多くの教会が積極的に協力したこともよく知っている。このことほど、今日の葛藤の現場において平和のために働くキリスト者の実存をはっきりとみせてくれるものはない。

 わたしが今日、この場にいることもわたしにとってはキリスト者の実存をはっきりと体験させてくれる機会である。だれかが言ってくれた。“崔牧師にとっては韓・日間の国境というものには何の問題もないみたいだね”と。笑いながらそうだと返答する瞬間、本当にそれが単純な意味をもつに過ぎないのだという考えがとっさに浮かんだ。また同時に何年か前、カナダ連合教会と共に帝国に関する共同研究の集まりをする中、国境なく生活をしてきた先住民の話を聞いた後“国境”の意味を体験するためプログラムの一環でカナダとアメリカの国境をしばらく出入りしたりした経験が思い浮かんだ。わたしは日ごろから、平たい座で共に過ごすことで、今日のこの時代、真のキリスト者の実存を体験することができると信じている。今あらためて悟ることは、国境にこだわらず、心を共に合わせ力を共に合わせることもわたしにとっては平和のために働くキリスト者の実存を体験できるようにしてくれる貴重な機会だということである。もちろんそれはわたしだけの個人的な経験なのではなく、ここにいるすべての方々のおかげで可能なのであり、ここに集っていることそのものが共に分かち合う経験でもある。

 持続されるこのような経験こそ我々が生きる地の上に真の平和をなす土台となるのだということをあらためて確認するものである。


1)中野敏男「“戦後日本”に抵抗する戦後思想:その生成と挫折」(原出典:季刊『前夜』2(2004冬)、4(2005夏)、8(2006夏)連載を再構成したもの) 権赫泰、チャ・スンギ編, 『“戦後”の誕生―日本、そして“朝鮮”という境界』(グリンピ、2013)

2)そうした意味で“断絶”ということにはもちろん疑惑もいだかれている。戦後日本で、戦中の日本の責任とその対象領域は突然、消去されてしまった。それは真の意味で過去との断絶というよりは忘却だと言わねばならないものである。

3)田中宏・栗屋憲太郎・廣渡清吾・三島憲一・望田幸男・山口定共著、『戦争責任・戦後責任』(朝日新聞、1994年)参照。

4)ソ・ジェジョン“北の3次核実験と韓半島の非核化と平和体制の展望”『創作と批評』(2013夏)388号 

 もちろん日・米同盟に依存する日本の圧迫も排除できない。

5)以上 丁世鉉『丁世鉉の情勢トーク』(西海文集、2010)、p.138-144参照。

6)朴明林、“韓国戦争は我々にとって何であったのか?”、「ハンギョレ新聞」2013,6,25


* この講演は、日本基督教団京都教区滋賀地区伝道協議会主催の「8.15を覚え平和を求める集会」にてなされたものである。

2013年8月4日平和聖日 於大津教会


(翻訳 大山修司)

첨부파일 : 崔原稿 4校.pdf
전체 1
  • 2013-11-23 17:15
    * <福音と世界 > 2013년 12월호에 수록된 수정원고를 첨부파일로 올립니다.

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